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信者体験談
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山崎 桃子 様
「生と死の綱引き」 平成二十九年十月一日

瀬棚郡今金町 山崎 桃子 様

 

これは今年の九月末に私が体験した実際の出来事です。
私は二十六歳にして、混合性結合組織病という膠原病(こうげんびょう)の一つにかかってしまいました。難病です。膠原病と、はっきり診断されたのは今年の六月でした。その時には炎症が軽かったので、薬での治療はなく、定期的な検査のみでした。
しかしその三か月後の九月のこと。微熱が続き、毎日身体が怠(だる)い中、仕事に行き、あっという間に私の住んでいる地元のお祭りと、私の誕生日がきました。友達や家族に誕生日を祝ってもらって幸せな一日を過ごしていました。
その次の日からなんとなく具合が悪く、熱が38度。地元の内科に受診するも点滴で一時的に熱が下がるだけ。次の日もまた次の日も40度の熱が続き、隣町の総合病院へ。坐薬を処方され、その日はそのまま帰ってきました。だがしかし熱はずっと下がらず、かかりつけの膠原病内科へ行き、薬をもらいその日もまたそのまま帰宅。しかし高熱は下がらず、意識がもうろうとする中、函館の総合病院へ。その日に入院となりました。
急性扁桃炎と診断され、点滴をするも熱は上がったり下がったりを繰り返し。そのうちに私は意識が遠のき、看護婦さんに「目を閉じちゃダメだよ山崎さん!山崎さん!」と言われているのも分からないうちに、目を閉じ、意識がなくなりました。それから急きょICU(集中治療室)へ運ばれたそうです。ちなみに私は前後の記憶がないので意識を失ったことも覚えていません。髄液採取の結果、無菌性髄膜炎と診断。
この時父は、お医者様から「お父さん、覚悟しておいてください。」と言われたそうです。父も家族も泣きじゃくったり、パニックになっている中、父の兄が総裁様に電話してみようと言い、私の現状をお伝えしたところ、総裁様は「明日来れますか?」と言ってくださり、父と父の兄が総裁様のもとへ行ってくれて、総裁様に「この子は今、生と死の綱引きをしています。三日~五日が山ですね。三日間私に電話をください。最善を尽くしますよ。」と、お言葉をいただいたそうです。その帰りの道、虹が見えたそうです。私の枕元には八大龍王神様の大きな御神札と紙(御検障の紙)が置かれており、三日~五日の間と言われた三日目に目を覚ましました。もちろん私は目を覚ましたことも覚えていません。
その後、意識が戻ったが、身体のあらゆる場所に針が刺されており、二十四時間点滴、首には胃を継続する管、下半身には尿の管、そして私が動いて針が抜けないように両手には手袋を履かされ、ベッドに縛り付けられていました。そこからが生き地獄でした。助かっても後遺症は残ると言われていましたが、左目の焦点が合わず、身動きもとれず、前後の記憶がなく、言葉も出てこない、家族の顔や名前はわかるのに、単語という単語が出てこない。友人達がお見舞いに来てくれたことも覚えていない。父に、私はなぜここにいるのか、一体何が起こったのか全部聞きました。でも何も思い出せず、只々辛い毎日が続きました。
眠るときは必ず八大龍王神様の御神札を握って眠りました。御神札を握っていると不思議と力が湧いてくるきがしました。看護師さんもおどろく程、私の回復力は早かったのです。二週間ほど点滴のみでご飯も食べられなくて体力も落ちていたのですが、それから段々歩けるようになり、尿の管もとれて、家族も看護師さん達も、回復の早さにおどろいていました。
その時私は総裁様のお顔が頭に浮かびました。三日~五日と言われていた私の命、総裁様の御力により、もう一度命をいただきました。退院後、すぐに総裁様にお電話をしますと、私が元気になったことを総裁様は喜んでくださり、「これからも大丈夫ですからね。」と言ってくださいました。十一月のお祭り(本宮秋季例大祭)にも参加させて頂き、直接総裁様とお話ができました。総裁様に握手をして頂くと、力がみなぎった気がして涙が出てきました。通院はまだしていますが、今では数値が安定し、薬も減ってきて、後遺症も段々よくなってきています。本当に本当に奇跡です。お蔭様で順調に回復してきています。
今も私は毎日、御神札を握りしめ、「南無八大龍徳恩(なむはちだいりゅうとくおん)」と唱えています。総裁様、この度は本当に本当にありがとうございました。 
もう一度この世に戻ってこられる扉を用意してくださったのは総裁様です。