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教祖真筆 救済記
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教祖真筆救済記(Ⅰ)
教祖真筆 ~八大龍王神救済記(Ⅰ)~
◆『昭和二十四年 初秋の頃 
        檜山郡江差町字越前町 山村菊松』
 
八大龍王神の修行に入りてまだ間もない頃、昭和二十四年頃秋
越前町の山村菊松妻が私の処へ参拝に来て頼むには主人が肝臓のがんらしく、今はねている方が多く函館の医者にはなされ、更に叔母の畠山と云う行者(ぎょうじゃ)にもはなされて帰って来ているとの事なので、ぜひぜひと頼まれたため翌日出かけた。バスは戦后のことで木炭バス、満員のバスに人いきれも甚だしく、白衣もないまま水堀まで出かけた。ここから越前町までは約一里の道程であるが、歩いて訪ねた処、本人は何をたべても吐気がして黄色い顔をしていた。戦后高校生に角力(相撲)を教えたため、この辺の人はみな私を角力取り(相撲取り)の鴎島(四股名)(かもめじま)さんと呼ぶ…私の顔を見て本人は、仕事もなくにわかに出来た行者と云う、ぶべつの色が顔にでて、貴方より勉強しているからと、宗教の本を何冊か枕元において、理論的な顔をしていた。内心立腹したが行(ぎょう)とあきらめ忍ぶ。「米の二、三升もくれて帰って貰え」と云うに及んで目の前が真黒くなる。然し忍耐して、どうせ来たのであるからと云って、拝ませて貰う。物資の不足の時なので、ローソクも魚油の黄色いもの、センコウは太い雑なもの、塩は配給の岩塩でもちのアラレの様なもの。然し身そぎの祓をし、大祓の祝詞(のりと)に入ったら、急に私の後の方の表戸があいて女が入ってきた気配、更に後の板の間を足高に通り、横のフスマを開けて、タンスのツバを鳴らして着物をとって、亦フスマをしめて板の間をならして女の香をのこして出て行った。祝詞奏上中、大変な親子と思ったが、実はこの女は娘でなく霊であり、この家の古材が料理屋の古材で建てたため、水商売の女の因縁とあとでわかる。その中、大祓が中頃に行くと、花火が出る様に壁面が光り、その部分に塩をもって打ち祓ふと男の昔の漁師の様な顔が十四、五人あらわれ、オランダ菊を手に持って現れたので、何も云わず山村さんに、今晩神様を拝んでやすむ様に云って、畑又三郎さん宅でやすむ。翌日山村さんへ行くと、彼は表に出て奥さんと共に片手で私を拝みひれふしている。この光景は信じられず近づくと、この様に元気になった、と云って私を横座に坐らせて涙を流して本人が話をしてくれた。私に云われて、停電なので皆休んだところ、夜中神棚が光りいなずまかと…思ったがしめ(注連縄(しめなわ))が鳴ってかさかさしている中から光が出ているのでふと目を覚ますと、がらがらと表戸が鳴りオランダ菊を持った幽霊十四、五人が恐ろしい人相で家の中に入り、夫婦共々その霊にしかられ苦しんで、口でがまんできず、南無八大竜徳恩(なむはちだいりゅうとくおん)ととなえると、その姿が佛だんから光が出て消え、ほっとすると亦あらわれて、亦消えると云う事をくりかえし、心からざんげをしてやすんだらしい。その夢の中、今度は池のそばに自分が立っていて、みつめていると三匹の竜があらわれ、一匹はそばの立木にのぼり、一匹は下の方へ泳ぎ去り、一匹は亦湖の中に消えたら急に池から出て、その池が亦竜の御姿になって山村さんの口の中から入り、腹が急にふくれてしまふ程となったが、亦腹から出て行ったそうで、その時急に山から水が溢れて流れて来たので、急いで屋根にのぼると、あたり一面水が一杯になり、ひなんしていたが、下の方から山村さん助けるぞと云う声で舟に人が溢れる程のっていて、どうなる事も出来ないが、やっとのり、竜がとも(船尾)を口でくわえて、尾をもってばたばたして舟を岸につけると同時に、倒れて死んでしまったので、皆が大恩(だいおん)の竜の体をごふ(護符(ごふ))にと云うので、皆切って夫々分けようとしたら、自分は片手よりないし、いい処は貰えないと…あきらめていた処、それ、山村さんと云ってお頭をいただいた夢をみて、目がさめたら、腹がはちきれそうになり、そのためにすぐオマルで用便をたした処、大小に下す竜王神の御法の力によって、たちまちオマルに山程幾十日分の便を排せつして、腹がかるく、どこもわるくないのでと云って、しきりに私を拝み涙を流していたわけである。ところがその漁師は実は徳川の末期の頃北陸方面か大阪か、ニシンを買ふベンザイ船の乗組員で乙部沖で遭難したものをまつった墓が乙部へ行く道路にあり、山村さんは土木現業所の道路工夫であり、たまたま修理作業中に、土場(どば)のもんと宗の僧の息子がアルバイトに来ており、バスやとらっく(トラック)のために出来た穴にバラシを入れる事を大義がり、その墓をかついで来てうめて、云うには戦争もまけて、神も佛もない、あったらたたってみよと云って足でふんだらしく、山村さんが最高の責任者であるために、否、この人にすがれば浮かべて貰えるとみた霊が不思議をあらわし、私がその因縁を解明させていただいたわけである。その后供養したのでしっかりよくなり、現在四十四年七月にも元気。二十四年以上元気なわけである。